お魚売りのおじさん

いつ頃からか。。。

多分今年に入ってからだと思う

 

人懐っこいおじさんが、お魚持って訪ねてくる

買ってあげないと。。。って思わせる人の良さそうなおじさん

手押し車に新鮮なお魚類持って

ドロメ、鯛のお刺身用半身切り身、お刺身後の立派なアラ、などなど

家族がすくないから〜〜と言いながらつい買ってしまう

 

雨の日は、店主(これまた結構な高齢者)の軽トラで。。。

もうこんな風景は無くなってしまうんだろうなぁ〜

と思いつつ

子ども時代自転車の荷台トロ箱にいっぱい積んできてたおじさんからお魚買ってた母の姿と重なる

 

この前の

立派な魚のアラで作った炊き込みご飯が美味しかった。

来るたびに買えるように、お魚レシピを増やさなくては。。。

 

今夜もアラとの戦いじゃ。

 

 

はっ?

私が精算してるんですよ。 

 

後ろからロッカーカードを、ポンと投げるって…

どういうこと?並ぶってことしらないんですか?
どんな地位にあるのか知りませんが常識ってご存知ないの?

受け付けの若い女性達、笑顔であなたのことランク付けしてますよ。

家庭内でも同じことしてるんでしょね。

賢いオンナは何も言いません。

通じない人にはどんな言葉も通じないのよ

 

 

 

無駄な時間

私の好きなドラマや映画はぜったいにひとりで見るのだ。

あなたと見ると腹が立つ

いやなの

今も、ドラマ見るって言いながら、スポーツ見てる。 

そういうとこが嫌いなの

大嫌いなの

 

先に見といてよかった。

ホントよかった。

 

かっぱ

文豪の朗読
谷川俊太郎が読む「理想的な詩の初歩的な説明」「かっぱ」 江國香織が聴く》
「文豪の朗読」一覧はこちら
 すっきりした声による、明晰(めいせき)な朗読。声が言葉と一体化している。無駄なものが何もないのがおもしろい。“理想的な詩の初歩的な説明”という、いかにも谷川俊太郎的な題名の詩のなかに、「詩はなんというか夜の稲光(いなびか)りにでもたとえるしかなくて/そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ/意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を」という一節があるのだが、この詩人の朗読を通して、私たちもまた、それぞれの詩を見て聞いて嗅げてしまう。これはとても稀有(けう)なことだ。なぜなら、普通、肉声には逡巡(しゅんじゅん)や含羞(はにか)みや体温や感情が混ざるからで、それはそれで貴重ではあるにしても、文字だけでできた詩や小説そのものにとってはやはり余分なものだからだ。でもこの詩人の場合、その余分がない。肉声に、逡巡も含羞みも体温も感情も混ぜずに発音している。すごい。そんなことができるものだろうか。もしかすると、この人は普段「ネリリし」たり「キルルし」たり「ハララし」たりしている宇宙人なのかもしれない。あるいは、詩人というのはそもそも「もの言わぬ一輪の野花」だから、逡巡も含羞みも体温も感情も持たないのかもしれない。
 ログイン前の続きというわけで、一編ごとに(たぶん詩の言葉と詩人の同化現象によって)空気が変(かわ)る。“二十億光年の孤独”の透徹した軽やかさ、“鳥羽1”のしっとりした重み、“おばあちゃんとひろこ”のあわあわした哀(かな)しみ。
 なかでも必聴なのは“かっぱ”で、これはもうただごとではない完成度の朗読である。可笑(おか)しい。何度も繰り返し聴いてしまうこと請け合い。言葉遊びなのだから当然かもしれないが、わかっていてもつい笑ってしまう。声とひらがな、リズムと音。文字を見ながら聴くと、目から入る情報と耳から入る情報が渾然(こんぜん)一体となる。それは、自分に肉体があることを忘れてしまいそうに軽やかな体験で、とても気持ちがいい。(作家)
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 1960年代に発表された朝日新聞が所蔵する文豪たちの自作の朗読を、識者が聴き、作品の魅力とともに読み解きます。
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 今回は、電子書籍シリーズ『谷川俊太郎~これまでの詩・これからの詩~』(岩波書店)の朗読音声を元にしています。