その2

 

https://mainichi.jp/articles/20171217/ddm/010/010/034000c

月給25万9000円の市長(その2止) 夕張再生目指し格闘

 

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 市長室で仕事をする鈴木直道市長=北海道夕張市役所で11月、竹内幹撮影

 

 

 

◆36歳・鈴木直道市長

「裸の王様」を脱却

 

 
 
 
 
日中でもシャッターの下りた店が目立つJR清水沢駅前の町並み=北海道夕張市で2017年12月13日、竹内幹撮影

 一面に銀世界が広がる北海道・夕張山系。東京都職員だった鈴木直道さん(36)は2007年12月25日、この地を初めて訪れた。08年1月21日付で夕張市へ派遣される前に、東京都の猪瀬直樹副知事(当時)らと下見に来たのだ。

 大企業が集積し、全国で最も豊かな税収を持つ東京都。企業で言えば倒産状態に陥り、財政再建団体(現制度では財政再生団体)となった夕張市に職員を派遣しようと発案したのが猪瀬氏だ。自治体が財政破綻すると何が起きるのか、都職員に肌で感じてもらうとともに、都のノウハウを生かして他地域に貢献しようという狙いだった。候補となった若手職員の中から第1号に選ばれたのが、鈴木さんと百沢(ももさわ)俊平さん(38)の2人である。

 当時26歳の鈴木さんは都の保健政策部疾病対策課主事だった。緊縮財政のまちに身を置くことで、削れる行政サービスとそうでないものは何なのか知りたい。夕張で学んだことを都庁の仕事に生かせるのでは--と考えたという。

 07年に財政再建団体に指定された夕張市は職員の給料を平均3割カット。将来の希望が持てなくなった管理職らが一斉退職し、残された職員が突然管理職になるなど混乱していた。鈴木さんが初めて夕張を訪れた日、配属先で名刺交換をしようとすると若手職員に言われた。「あなたが赴任するころに私はいないので」。着任日は歓迎会でもしてくれるのかと思っていたが、そんな様子はみじんもない。午後5時前になると、職員たちは次々とベンチコートやスキーウエアを羽織り始めた。経費節減で庁内の暖房が切れるための防寒対策だった。気温はどんどん下がり、指もかじかみ、パソコンを打つ手の感覚がなくなった。その日の夜、百沢さんとコンビニ弁当を食べながら語り合った。「俺たち、これからどうなるのかな……」

 破綻したまちの役所は暗かった。自分の仕事で精いっぱいで、仲間を助ける余裕もない。ただ、百沢さんは当時の鈴木さんの働きぶりをこう語る。「冬祭りの復活に向けて市内の企業を回ったり、休日返上でボランティアに参加したり、仕事の範囲を超えて活動していました。夕張を変えたい思いが強かったのでしょう。私にはできない、と思っていました」

 夕張市は、炭鉱の閉山が相次ぐようになった1975年から「ゆうばり寒太郎まつり」を開いてきた。「脱炭鉱」のまちづくりを盛り上げるための行事だったが、財政難から04年を最後に中止していた。鈴木さんは09年2月、農協や青年会議所などの協力を得てまつりを復活。20万円という低予算で手づくりのイベントに生まれ変わらせた。せっかくできた住民とのつながりを生かしてもっと仕事がしたいと考え、09年3月までの予定だった派遣期間の延長を申し出た。最後の勤務を終えたのは10年3月。市職員や市民ら約50人が市役所前に集まり、黄色いハンカチを振って見送ってくれた。「たった2年2カ月の派遣だったのに、こんなに泣けるのかというくらい泣きました」

 東京に戻った鈴木さんは、都から内閣府に出向し、地方自治を担当する。多忙な霞が関での日々。各省庁から人が集まり、楽しさもあったが、市民の顔が見えないことに物足りなさを感じた。市民と接した夕張での日々やともに汗をかいたかつての同僚の顔が頭に浮かんだ。

 夕張の若い市民らから市長選への出馬を打診されたのはそんな頃だった。

 当時は婚約者だった麻奈美さん(35)との結婚を控えており、埼玉県内の団地に住み始めたばかり。財政再建のため夕張市長の年収は300万円台で、当選しても200万円近く減ってしまう。

 それでも夕張への思いが勝った。東京23区より広いのに財政破綻後は図書館もなく、6校あった小学校は1校になり、住民税も高い。仲間や友人が自分を必要としてくれるならやれることがある、と思い立って10年11月に都庁を退職。11年4月の市長選で元衆院議員ら3人を抑えて初当選した。

 市長として初登庁すると、職員に呼びかけた。「厳しい状況であればこそ、一生懸命な姿が輝く。前例主義では何も変わらない。ぜひ力を貸してください」。まず取り組んだのは役所の機構改革。国の同意がなければ予算を変えられず「どうせ何もできない」と思考停止に陥った空気を変えたかった。だが、6割以上を一気に異動させた改革は、限られた人数でなんとか仕事をこなしてきた職員たちを混乱させてしまう。

 市長選で公約に掲げた「地域担当職員制度」への反発も大きかった。市内を13地域に分けて担当職員を決め、町内会などに参加させることでニーズを吸い上げるアイデアだったが「職員の負担が増すだけ」と不評だった。庁内会議で幹部職員と鈴木さんがやり合った。

 「これ以上、業務を増やさないでほしい。私たちに死ねというんですか」

 「私は死ぬ覚悟で仕事している。みなさんも人生をかけて仕事してください」

 怒鳴り合いも一度や二度ではなかった。当時を振り返る鈴木さんは苦笑を浮かべる。「大人げなかったですよね。今なら『ありがとう』と一言かけることができたのでしょうけど」。地域担当職員制度も「市民の御用聞きにとどまるなど、思うような成果が出ませんでした」と失敗を認める。

 職員との距離が広がりつつあった新市長を叱咤(しった)、激励した職員がいる。派遣時代に鈴木さんの直属の上司だった寺江和俊さん(55)=現総務課長=だ。

 当時の鈴木さんは、国の管理下で進む財政再建を夕張の実情に合ったものに見直してもらおうと東京に足しげく通い、「夕張のセールスマン」を自任してイベントや講演を一手に引き受けてもいた。職員から「決裁が滞り、仕事にならない」「都知事と違うのだから、もっと職員のところに来てほしい」といった声が上がり、寺江さんは鈴木さんに直言した。「今の市長は裸の王様だぞ。一人で何ができるんだ。自分の力だけではないということを頭の片隅に入れておいてほしい」。自宅に呼び、膝詰めでもっと職員に目を向けるよう諭したこともある。

 現在の寺江さんは当時の鈴木さんを「結果を出そうと焦っていたのでしょう」と思いやる。鈴木さんも人口減少が進む中、市内に分散する居住区域を集約するためお年寄りを説得して移住してもらったり、JR北海道に地元の赤字路線の廃線を「逆提案」することで市の交通施策への協力を得たりと実績を積み重ねてきた。そんな姿を間近に見てきた寺江さんはこう言う。「この7年近くで職員への気の向け方も少しずつ変わってきた。市長としての貫禄も出てきて、頼もしくなったよね。同じことをできる人は、そうはいない」

希望の10年へ一歩

 鈴木さんは埼玉県三郷市育ち。大きな転機は、高校2年の時に両親が離婚したことだった。

 母光子さん(63)と姉の3人で低所得者向けの住宅に引っ越し、6畳ほどのワンルームで「川」の字になって寝た。母はパートを掛け持ち、姉は短大をやめて働きに出た。鈴木さんも高校に通いながら宅配便の配送センターや酒屋、建設現場などでアルバイトに明け暮れた。ボロボロの家に住んでいることが恥ずかしく、学校の友人たちには黙っていた。光子さんによると、鈴木さんが当時こう口走ったことがある。「生まれてこなければよかった」。光子さんは「とんでもない。絶対に『生まれてきてよかった』って、そういう人生になるに決まってる」と励ましたが、息子がいなくなったところで涙を流したという。

 経済的な事情から大学進学をあきらめた鈴木さんは東京都職員になるべく、独学で猛勉強を始める。母子家庭になって行政サービスの支援を受けた経験から役所に興味を持ち、学歴に関係なく努力すれば昇進できる都庁の人事システムにも魅力を感じた。採用試験に合格し、18歳だった99年に都庁に入庁。2年目からは法政大法学部の夜間部に入学し、地方自治を学んだ。朝5時に起床して新宿の都庁に向かい、午後5時半に仕事を終わらせ、6時半から9時半まで授業を受ける生活。ボクシング部でも汗を流し、食事をする時間がなく電車や授業中に夕食の菓子パンをかじることもあった。

 麻奈美さんと出会ったのも都職員時代。夕張市長就任の翌月に2人で市役所に婚姻届を提出した。2年ほど賃貸アパートに住んだ後、市内に一戸建てを購入した。「日本一給料の安い首長」と紹介される鈴木さんだが、麻奈美さんも幼稚園で働いて家計を支える。

 現在の鈴木さんは午前7時に起床し、8時半に出勤。9時からミーティングや庁議があり、来客対応や行事にも追われ、帰宅は午後10時を過ぎることも多い。市長としてはクールでストイックな印象を受けるが、周囲の人物評は「すごい人だけど、仕事以外ではぼんやりしている」「天然」「ほわっとしている」……。麻奈美さんは「家で仕事の話は一切しないし、つらそうな様子も全く見せません。直道さんにはやりたいことをやってほしい」、光子さんも「やりがいがあることをやって幸せに生きているなら、それだけで十分です」と言う。

 財政再建一辺倒だった夕張市は今年3月、地域再生に向けた新規事業に10年間で113億円を投じることの了承を国から取り付け、新たな一歩を踏み出した。具体的には、第2子以降の保育料無料化▽民間アパート建設費の助成▽子育てや文化、交通の拠点となる複合施設の建設--などを進め、鈴木さんは「耐え忍ぶ10年から、夕張の将来を明るく作り上げていく10年がスタートした」と強調する。

 ただ、破綻前に260人いた市職員は約100人に減った。道内の自治体などから派遣された約20人の力も借りて、何とか業務をこなしている。職員でつくる労働組合の佐藤由士昌(よしまさ)委員長(44)は「今の体制で新事業を進める余力がどれほどあるのか。しっかり職員と対話しながら形にしてほしい」と望む。

 今年5月には、市の高齢化率が50%を超えた。財政破綻時に1万2000人だった人口も8000人台まで減少。地元の60代女性は「人口が増える見通しがないのに、新しい施設を作っても維持できるのかしら。破綻前と同じように負債を抱えることにならないか心配」と言う。新規事業が再生の起爆剤になるか、まだ分からない。

 かつて私の取材に「この夕張に何か貢献できれば、自分が存在した意味もある」と語った鈴木さん。今冬、再び夕張を訪れた私が「この10年間で『意味』は見つかりましたか?」と問いかけると、笑顔で応じた。「いや、まだ分からないですね。分かる時は死ぬ時かもしれませんね」。そして言った。「夕張は市民にとって理不尽な状況で財政再建団体になった。それを解決することには大義がある。『大義ある逆境』を乗り越えることは、すごくやりがいがあります」。高校生の時に「逆境」に直面し、乗り越えてきた半生を重ねているかのようだった。

 夕張が抱える少子高齢化、人口減少、財政難といった課題は「日本の行く末の先取り」と指摘されてきた。このまちが消えれば、日本全体もそうなりかねない。鈴木さんと夕張の人たちがどう乗り越えていくのか、注視していきたい。


 ◆今回のストーリーの取材は

円谷美晶(つぶらやみあき)(東京社会部)

 2009年入社。北海道報道部、千葉支局を経て16年4月から現職。気象庁担当として熊本地震などを取材後、同年6月から東京都庁を担当。小池百合子都知事や「都民ファーストの会」などを取材している。


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